当院のロゴマークに”Body−Mind−Spirit”という言葉を使いました。

Body=身体 Mind=心 までは共有しやすい概念です。何となくみな分かっているような気がしますよね。一番共有しやすいのがBodyです。Mindになると、立場によってとらえ方が違うでしょう。人によってとらえ方が違うのは目に見えないから、想像力が入り込みやすいからです。Bodyに関しても、かつてそれほど遠くない過去においては、いくらでも想像が入り込む余地がありました。しかし、分子生物学、遺伝子学など、非常に細かい部分まであたかも解明されたように情報が開示され、また生殖医学、移植医学のように、身体が想像を超えて操作できるようになると、だんだん想像が入り込む余地がないような錯覚に陥ります。しかし、この身体に関する情報ですら、宇宙に関する情報のように、だれも直に証明できるわけではなく、あくまでも現代科学で検証できる範囲の情報の継ぎ合わせにすぎないわけです。

人は理屈に弱いです。理屈で反論できなくなれば従順になります。弱さと強さは裏腹なので、理屈に弱いということは、理屈で証明できないことにはここぞとばかりに勝手な想像がふくらむ、言いたい放題になるということです。Mind=心についても、最近では脳科学が進歩したことで、分かったような情報が氾濫するようになりました。ですから、心の問題もインテリの人たちの間では随分共有しやすくなってきました。しかし、普通の人々にはそういう情報はまだまだ一般化されていないので、心の問題=「心が弱い、わがまま、努力がたりない」などという妄言がまかり通り、心を病んだ人々には辛い現実です。

さらにあいまいなのがSpirit=精神or魂 とかいう要素です。これは、ほぼ絶望的に理屈で証明することはできません。なのにその言葉自体は人の心をとらえ、太古の昔からハイテクの現代まで、消え去ることなく使われています。証明できるから存在するのではなく、存在は感じるものであるという証拠ですね。ただ、前述したように、絶対に科学的に証明できないので、共有できる理屈にはならず、「心」以上に想像がふくらむ世界です。一歩間違えば想像から妄想に発展しやすい要素です。

それゆえ、現代科学はその要素には手を出しません。存在を感じつつ、無視し続けます。あるいはそれは神学、哲学、宗教学あるいは文学に任せておけばよいといわんばかりです。ただし、オカルトや新興宗教には支配されたくないという変な意地はあるようです。

それをあえて心療内科はBody−Mind−Spiritをひっくるめて人間を考えていくのだと言い張っているのは、私の想像(妄想?)なのかもしれません。私は人が人たる中心的要素はSpiritの部分であると信じているのでそれが証明されなくても、理屈に合わなくても、一番大事にしていきたいと思っています。私がそれをどう定義づけて、どう大事にしているのかは、言葉では表現できないので書きません。ただ、Spiritを大事にするというのは言葉でどうこうするものではないとも思うし、言葉にしてしまえば真実からは遠ざかってしまう、それがSpiritというものだと思っています。

長々と訳の分からない文章を書きましたが、私の思いが少しでも伝われば幸いです。