受動的集中と変性意識状態

 

能書きが長くなりましたが、いよいよ、その無謀な説明に入ります。これは様々な書物にも書かれていることなので、そういった教科書的なことではなく、私が理解している体験的理解をお話ししたいと思います。

ここAをクリックしてみてください。

現れた写真をみてどう感じましたか?

次にここB1B2をクリックしてみてください。

現れた写真をみてどう感じましたか?

最後にここCをクリックしてみてください。

現れた写真をみてどう感じましたが?

感じ方は人それぞれなので、全ての人がそうとは言えませんが、多くの人は同じように感じたのではないでしょうか。

 

A. 何をしているのかな、どういう会社なのだろう、どこの国かななどなど

B1. きれいだな〜 あるいはなんていう花だろうとかこれは〜という花だななど

B2. あっ、かわいい。ごまちゃ〜ん

C. おお〜きれいな風景だ 

何が言いたいかというと、Aのように分析的に意識を使うのを「能動的注意集中」といい、Cのように感動するとか、思わず見とれるという意識のありかたを「受動的注意集中」といいます。つまり、何かをどうこうしようとしているわけではないが、そこに意識が集中し、雑念はなくなる。このような写真では実感が薄いと思いますが、芸術作品、すばらしい風景、思いがけない喜び体験等の時、心はその対象にしっかり釘付けになりますが、疲れることはなくむしろ元気をもらったような気がしませんか。

また、そういう状態がしばらく続いた時、なにやら夢見心地な普段とは異なる意識状態になることがありますね。それを変性意識状態といいます。

能動的注意集中はエネルギー消費的で、受動的注意集中はエネルギー蓄積的といわれています。そして通常のわれわれの営み、特に仕事や勉強は能動的注意集中を強いられる行為なのです。それだけでは疲れてしまうので、多くの人は、小難しいこと抜きに、適当にさぼったり、無駄話をしたり、お酒を飲んだり、秘められた趣味に没頭したりしてバランスをとっているのです。そういうことが苦手、下手な人はエネルギーを使いすぎてストレス病にはまりやすいので、意識的に何か工夫する必要がでてきます。

瞑想法を中心とする東洋的アプローチはそれを形という意識的な行為からはいることで、意識の深いところに影響を与えるわけです。自律訓練法も西洋的瞑想法と言ってもよいかもしれませんが、形を利用して、そういう意識状態に入りやすくなる練習をするわけです。

自律訓練法は、基本的には形から入って、頭を使わず、理屈に走らず、基本公式を念仏のように唱えることで、受動的集中→変性意識状態に到達する練習です。

しかし、こういったイメージをちょっと念頭に置くと、やりやすくなったり、モチベーションが高まったりするのではないかなと思います。

自分の身体に対して受動的集中をするとはどういうことかを説明します。

基本公式として、手足が重い、暖かいというものがありますが、人間の身体がリラックスすれば、自然に手足は重く、暖かく感じます。逆に重い、暖かいというイメージに近づけば、リラックスした状態になります。同じ結果に到達するにも、リラックスしろと言われるより、具体的な感覚をイメージする方がやりやすいですよね。

問題はそのイメージにどうやって到達するかです。「重くなれ、暖かくなれ」とか「重くしよう、暖かくしよう」というのが能動的注意集中です。それではリラックスから遠ざかってしまいます。その公式をくり返し、重いものをもった時の感覚、暖かいものにふれたときの感覚を思い出しながら、手足に意識を向けます。よーく観察していると、何かしら変化を感じるものです。どんな些細なものでも重要ですから、注意深く観察します。自分の身体を、大自然の風景を眺めるように眺め見てみるのです。ささやかな変化を発見すると、「おっ、何か重いような、暖かいような・・・」という感じを発見します。さらによーく観察しますと、その感覚がよりはっきりしてきます。そうやって、自分の身体の中に新しいものを発見していきます。分からない時は焦らず、分かるまでまてばよいです。大事なことは、どんな些細な変化も大事にすることです。

このように、先入観、効果への期待、いそぐ気持ちなどから離れ、純粋に自分の身体を眺めるようにな意識の向け方が受動的注意集中といえます。そうして、身体の中に何かを発見する喜びを感じていると、特殊な意識の感覚を得られます。目は閉じて、ぼんやりしているのに妙に頭がさえた感じがします。それを変性意識状態といいます。そこから覚めた後は、頭の疲れが取れたような感覚を感じると思います。

これは先に述べましたように、あくまでも自らの体験を通した説明なので、反論がある人もあるかもしれませんが、一つの話として受け止めて頂ければ幸いです。


top